2008年03月24日

「死ねば誰でも極楽」の、根深い迷妄 友人の変化

 長年、連れだって本願寺の説教を聞きに行っていた友人が、ようやく最近、変化の兆しを見せ始めました。
 これまで、「死ねばみんな極楽へ往けるんだ」と言っていた彼が、「信心決定しなければならん」と変わってきたのです。
 これも、親鸞会の講師が、親鸞聖人のお言葉を示して、同じことを、何べんも、何べんも、話してくれたからだと思います。
 
 これまで、「親鸞聖人の教えと、本願寺の伝統と、どっちにしたがう」と聞いたら、「そりゃあ、伝統だ」といっていたのですが、やっぱり親鸞聖人のお言葉にまさるものなし、私たちが自分の言葉で何いうよりも、親鸞さまのお言葉の魅力、破壊力は比べものにならんです。

 少しずつですが、本当の教えに導かれていっていると思います。この前は「本願寺は伝統に腰掛けている、ちゃんと布教しとらん」とも言って嘆いていました。
 まだまだ、十劫安心が抜け切れていない発言もたまに飛び出してきますが、真実の教えの光を浴びて、一日も早く、親鸞学徒に生まれ変わってもらいたいと思っています。



(十劫安心とは、生まれた時から、すでに助かってしまっている、という間違った信心のことです)
 
ラベル:親鸞会
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2008年03月15日

「歎異抄をひらく」を読んで

 高森顕徹先生の「歎異抄をひらく」を読ませて頂きました。

 とても深くて、1回や2回読んでぜんぶ分かるものではないと思いますが、特に私は「親鸞は父母の孝養のためとて念仏一返にても申したることいまだ候わず」で始まる第5章の意味を、知りたい知りたいとずっと思っていたところを、分かりやすく意訳されていて、その解説もあるので初めて理解でき、本当にうれしくてなりません。


 実は、親鸞会の話を聞き始めたとき、どうしても抵抗があってなかなか受け入れられなかったのが、後生の一大事でした。それは確かに、お経にも説かれ、親鸞聖人も蓮如上人も書いておられますから、それはそうなんだろうとは思いました。
 また日頃の自分の言動や特に心の内までみてみれば、善いところへゆけないだろうと薄々は感じました。
 だけど、もし人間は死ねばみな地獄へ堕ちる、ということになると、じゃあおらっちの先祖はどうなるんやと、どうしても感情がついてゆかなかったのです。

「歎異抄」の第5章は、そのこととなにか関係があるように思っていました。そして高森先生の「歎異抄をひらく」には、その答えがちゃんと書いてありました。
 なによりも私自身が、阿弥陀仏の本願に救い摂られることが、先決なんだと分かったのです。
 私が「信心決定」することが、本当の孝行であり、そのままが「いずれの業苦に沈めりとも、神通方便をもってまず有縁を度すべきなり」ということになるのだと分かったのです。


 本願寺の布教使の中でも、少ししゃべれる人は、「歎異抄講座」など開いていましたが、話を聞いてもどうもモヤのかかったような感じでした。
 第5章の話の時も、「死ねばみんな仏になれる」という結論だったと思います。
 それなら歎異抄の「業苦に沈む」という言葉が意味なくなるし、助ける必要がなくなります。


 本願寺でも、本の中には「本願を信受すれば往生浄土できるし、信受しなければ地獄に堕ちることは自明である」と書いています。
 「本願を信受する」というのは、阿弥陀仏の本願に救われること、信心決定することですから、
「信心決定すれば往生浄土できるし、信心決定しなければ地獄に堕ちる」
ということが「本願寺」発行の本にも「自明のこと」と書かれてあるのです。
 だからこそ蓮如上人は、「あわれあわれ存命の中に、みなみな信心決定あれかし」と御遺言されたのではありませんか。

 どうしてこんな大事な「信心決定」が、末寺の説教や講座では、全く説かれないのでしょう。
「死んだらみんな極楽」という話になってしまうのでしょう。
 布教使や僧侶自身がそう思っているからでしょうし、だから所詮は、耳に入りやすい有り難い話で頭をなでることしかできないのでしょう。


「歎異抄をひらく」には、肝心の「信心」がハッキリ説かれています。
 本当に分かるまで、何遍でも拝読したいと思います。
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2008年03月08日

「本尊は絵像がいいんだ」と言う住職

 過日、親鸞会より、聖人御真筆の御名号を、お仏壇にお迎えさせて頂きました。
ようやく浄土真宗の正しい御本尊をご安置でき、親鸞学徒の道を、また一歩踏み出すことが出来たと、喜んでおります。家が、やっと浄土真宗になった。そう思いました。

 御下付の時には、親鸞会の講師から、浄土真宗の正しい御本尊である御名号について、どなたが何のために作られ、どんな凄い働きがあるのか、親鸞聖人、蓮如上人のお言葉で教えてもらいました。
 なぜ、こんな大事なことを、今まで誰も聞かせてくれなかったのでしょうか。
 蓮如上人は誰でも分かるように、
「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり
 当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」

と言われています。他流と当流に分けられて、「よりも、よりも」と懇切丁寧に仰っているのだから、もう間違いようがないことです。

 ところが、この間、御名号に換えてから、はじめて寺の住職が家にきたときのこと。お仏壇を開くと、本尊が御名号なので、驚きの表情を浮かべて、
「あれ、絵像はどうされた?」
と、案の定、聞いてきました。そこで、これは言っておかねばならんと思い、浄土真宗の正しい御本尊は六字の名号であることを、先の蓮如上人のお言葉を挙げて示したのです。
 そうしたところが、血相かえて、高圧的にまくしたててきました。
「あんたそれは、蓮如上人の時代背景や門徒の経済状態と、今とでは違うんや。当時は貧しかったから、紙に文字をかいたものしか本尊にできんかったんや。それで蓮如上人は、門徒の生活にあわせて、名号にしたらよいといわれたんだ。今は、絵像でいいのだ」

「根本に尊ぶべき」最も大事な御本尊が、どうして、時代背景なんかで、ころころ変わるもんでしょうか。親鸞聖人や蓮如上人が、そんな理由で御名号を本尊にされたとでも思っているのでしょうか。

 親鸞聖人が、浄土真宗の正しい本尊は名号だと明らかにされのは、「一実円満の真教・真宗」である「本願成就文」に、どうすれば救われるかについて、お釈迦さまが「聞其名号」といわれているからでしょう。その「本願成就文の教え」から、それまで安置されていた木像絵像だけでなく、その両脇の観音勢至の二菩薩も、全廃されたと聞いています。
 当時の人から見れば、親鸞聖人のなされたことは異常に思われたでしょうが、親鸞聖人は、「一実円満の真教」である「本願成就文」の教えに、順われたのです。

「一実円満の真教」とは、大宇宙に二つと無い、たった一つの真実の教え。時代によって変わるものなら、「一実円満の真教」とは言われないでしょう。

「あんた、本願成就文、知っとるかね」
と住職に聞いてみたところが、
「そんな難しいこと、わしゃ知らん、知らんでもお念仏称えておりゃあ誰でも極楽へ往けるんや」
という。
「そんなことどこに書いてある。蓮如さんは御文に、ただ念仏さえ称えておれば極楽に往けるとみんな思っているが、信心決定しなければ絶対に極楽には往けんぞ、と仰ってるでないか。信心ひとつの救い、これも本願成就文の教えだ」
と言うと、
「あんた、だいぶ親鸞会にかぶれとるな」
と顔を真っ赤にしていうてきました。
「親鸞会の教えなんちゅうもんはない、親鸞聖人の教えをそのまま伝えているだけだ」
「あそこは違っとる」
「どこが違うんか」
「もういい、わしゃ帰る」
と、さっさと帰ってしまいました。

 住職からして、本願成就文の真実の教えが全く知らず、名号本尊を否定してはばからない実態に、本願寺の暗澹たる未来を思わずにおれませんでした。
 道のりは遠いですが、知らされた者から、伝えないといけないです。
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2008年03月03日

仏教の質問を、受けつけない布教使

「念仏さえ称えておれば、誰でも死ねば極楽へ往ける」
というのが、何十年と聞かされてきた、本願寺布教使の説教です。

 葬式、法事、法要での住職の話も、口さえ開けば、念仏、念仏と、念仏のオンパレードで、「信心決定せよ」とは、ただの一度も聞いたことがありません
 新聞の切り抜き話の後、「亡くなった方は、さきに極楽へ往って待っておられる。少しも悲しむことは要りません」と、気休め程度のお決まりの話で、酒飲んでかえってゆくだけです。

 ある時、近くの寺に布教使がくるというので、みんなにも少しでも疑問を起こしてもらったらと思い、話の後で、お釈迦さまの「易往而無人」の意味を尋ねてみようと思い、身構えて行ったのでした。
 ところが、話を始める前に布教使が、
「皆さんの中で、仏教の質問したい人があるかもしれませんが、そういうことは受けつけておりませんので、よろしく」と言ってから、始めたのです。
その布教使には、前にも同じように質問したことがあって、その私の顔が見えたので、予防線を張ったのでしょう。

 浄土真宗の布教使が、親鸞聖人の教えについての質問に、答えないでどうする。
 もう、情けないやら、呆れるやら、残念でなりませんでした。結局、自分が何も勉強していないから、答えられずに恥をかきたくないのです。
 それで話はいつものとおり、自分の家族がどうやらこうやらの後で、「では皆さん、念仏の生活をして喜びましょう」で終わり。これでは、何をどう聞けばいいのか、どうすれば助かるのか、まったく分かりません。

 親鸞会では、質問大歓迎で、高森顕徹先生の講義でも、受けつけられていますし、地元の親鸞会講師の勉強会でも、また、電話でいつでも、どんどん聞いてほしい、それをご縁に親鸞聖人の教えを明らかに出来るから、といってますし、実際、電話で質問すると納得ゆくまで答えてくれます。
 有り難いことです。
 
 一言でも親鸞聖人の本当の教えを伝えることに一生懸命な親鸞会を、まったく法を説かぬ本願寺が、非難している。
「親鸞会に門徒をとられ、財産を奪われる」と思って必死なのでしょうが、聞きたくても、教えがないのですから、門徒が離れていくのは当たり前ではないですか。

 どうか、正しい本来の浄土真宗に、戻ってもらいたいです。
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2008年02月20日

個人の体験オンパレード

 親鸞会の高森顕徹先生の説法と、私の聞いていた本願寺布教使O氏のと、全く違うのは、親鸞会ではつねに親鸞聖人のお言葉を示して、そのお言葉の意味を丁寧に話されて、親鸞聖人の教えが説かれていますが、O氏の話は個人の信仰体験ばかりです。
 親鸞聖人のお名前も、お言葉も、ほとんど聞かれません。


 例えばO氏は、弥陀の呼び声を聞きたいと思って山へこもったが、中々聞けずに、「オノレ、弥陀!」と思わず叫んだ、弥陀を怨んで泣いた、などという体験談です。
 そんな話を聞かせて、私らにどうしろというのでしょうか。
 同じように山へこもれ、とでも言いたいのでしょうか。
 できないものは、助からないとでもいうのでしょうか。
 そうでないなら、何の目的で、そんな自分の信仰体験を語るのでしょうか。
 私が信心決定することと、どんな関係があるというのでしょう。
 正直に言うと、私には自慢話にしか聞こえませんでした。

 その点、親鸞会では、十方衆生だれもが通る獲信までの道程を、親鸞さまの三願転入の教えで明らかにされています。
 親鸞聖人のお言葉が出されるので、間違いないと、安心して聞かせてもらえる。
 それが、私たちの救われる一番の近道だから、高森先生は、そのようにして下さるんだし、親鸞会の講師もそれ以外に話されません。
 個人の信仰体験を、親鸞会では聞いたことありません。
 一実円満の真教の親鸞聖人の教えを聞かないで、真実の信心を獲得することはできないことは、主著の「教行信証」というお名前の初めに「教」といわれていることからも、分かります。
 「信」は「教」の後にあります。


 ところが体験談オンパレードのO氏は、「教学なんかやらんでもいい、学者になるために仏法求めるのではないのだ」と、あきらかに親鸞会に当てつけてます。
 学者になるために仏法学ぶのじゃないことは分かっていますが、それと「教学はやらんでいい」というのとは、別でしょう。
 教学は定規。物差しです。親鸞聖人の「教え」です。浄土真宗の布教使たるものが、「親鸞聖人の教えは知らんでもいい」はないでしょう。

 そういえばO氏は、聖人を呼び捨てにしていた。
 彼の信仰がそこに現れていたのでしょうが、親鸞会で本当の教え、真実の信仰を知るまでは、気がつきませんでした。

 今でも、そんなO氏の話を有り難がって聞いている人がいるのが、哀れ。フンコロガシは、動物の糞を自分の巣までころがしていって食べるそうで、端から見ると「そんな汚いものを、よくも」と呆れるが、本人たちにとっては最高のご馳走。
 同じように、その人の信仰の程度、程度で、「どうしても親鸞聖人の教えが聞きたい。親鸞聖人のお言葉でなければならん」という人もあれば、だれか個人の体験談で満足してしまう人もあるのでしょう。

 私は幸いにして、親鸞聖人の本当の教えを説かれる親鸞会に出逢うことができました。

 私の周りには、親鸞会を誤解している人が沢山います。
「あそこは、違う」というので、どこが違うのか聞くと、「本願寺と違う」という。
「そうでない、親鸞聖人の教えとどこが違うのか」と重ねて尋ねると、みんな口をつぐんでしまう。
 結局、中身を知らずに、自分で確かめることもなく、無責任な噂に振り回されているだけなのです。

 そういう中、50年以上も布教してこられた、高森顕徹先生のご苦労は大変だったろうと思います。

 縁のある一人一人の胸に、真実の灯火をともしていきたいと今、私は燃えています。
ラベル:親鸞会
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2008年02月13日

なぜ「阿弥陀仏一仏」なのか

 私と友人は、地元ではわりと知られている布教使のO氏の話を、長年聞いてきましたが、阿弥陀仏とお釈迦様の違いも、その関係も、まったく知りませんでした。一度も聞いたことがなかったからです。
 
 ですから親鸞会で、根拠を示して詳しく教えて頂いたときには、びっくりしました。そして、大宇宙の諸仏方が見捨てた私たちを、本当に助けて下さる仏さまは阿弥陀仏だけであり、だからお釈迦さまが仏教の結論に、「一向専念無量寿仏」と教えられていることも、親鸞会で初めて教えてもらいました
 
「一向専念無量寿仏」とは、「阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよ」ということで、他の仏や菩薩や神には向くな、礼拝するな、信ずるな、ということになります。「犬が西むきゃ尾は東」で、両方に向くことはできませんから。

 このお釈迦さまの「一向専念無量寿仏」の教えに順うか、どうかで、この世から未来永遠、助かるか、どうかが決まるから、親鸞聖人は、
「一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり」(御伝鈔)
と、厳しく叫ばれたのだし、流刑にあわれた原因も、これを強調されたからだと聞いています。蓮如上人も同じく『御文章』に、
「信心といえるその相はいかようなることぞと言えば、まず、もろもろの雑行をさしおきて一向に弥陀如来をたのみたてまつりて、自余の一切の諸神・諸仏等にもこころをかけず、一心に専ら弥陀に帰命せば、如来は光明をもってその身を摂取して捨てたまうべからず。これすなわち、われらが一念の信心決定したる相なり」
とおっしゃっているのです。親鸞会発行の「教学聖典」にも載っています。

 私も友人も、こんな親鸞聖人の教えを全く知らずにいたのです。幸い、私は高森顕徹先生から教えて頂きましたので、村の宮にはもう参っていませんが、友人はいまだに神に頭を下げ、手を合わせている。
 しかも今日の神社は、仏教では外道とされるものです。
 その神を祀って祭事をしていながら、自分は「信心決定している」と思っているのです。蓮如上人の「これすなわち信心決定の相なり」とは、まったく逆のことをしていながら、です。

 こんなに分かりやすい『御文章』を開いて見せても、「そんなことは、本願寺で教えもらったことないから、別に参ってもいいんだ」と言い張るので、ついつい私もカッとなって、「あんたは、親鸞聖人の教えと、本願寺と、どっちを信じるのか」と言ったら、「オレは本願寺を信じる」と答えたのには、呆れるやら、情けないやらで、涙が出てきました。

「浄土真宗」とは、親鸞聖人の教えではないか。「更に余の方へ心をふらず」とか、「一心一向というは、二仏をならべざる心なり」とか、至るところに「一向専念」を仰っているじゃないか。こんなに分かりやすいお聖教の根拠を示しているのに、なぜ分かってもらえんのか。後生の一大事を思うと、本当にかわいそうで、なんとかしなければと思います。


 余りにも「一向専念無量寿仏」を厳しく言われたのが親鸞聖人ですから、「浄土真宗」を「一向宗」とまで言われるようになったことも、御文章にちゃんと書いてあります。
「問うていわく、「当流をみな世間に流布して、一向宗と名け候は、いかようなる子細にて候やらん。不審に覚え候」。
 答えていわく、「強ちに我が流を一向宗となのることは、別して祖師も定められず。おおよそ阿弥陀仏を一向にたのむによりて、皆人の申しなす故なり。
 しかりと雖も、経文に『一向専念無量寿仏』と説きたまう故に、一向に無量寿仏を念ぜよといえる意なるときは、一向宗と申したるも子細なし」
 阿弥陀仏一仏に向かい、信ずる教えだから他宗の人らが浄土真宗のことを一向宗というようになったんだと書かれています。
 それが今日、「何を信じておっても一向にかまわん、という教えなので、一向宗というのかと思っていました」という人が、冗談でなく本当にいるのです。
 太宰春台は「一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専にして、他の仏神を信ぜず、如何なる事ありても、祈祷などすること無く、病苦ありても呪術・符水を用いず、愚なる小民・婦女・奴婢の類まで、皆然なり、是親鸞氏の教の力なり」と言っています。

 現在の本願寺の有様を、親鸞聖人がご覧になられたら、いやきっとご覧になっているにちがいありませんが、

「かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す」

「五濁増のしるしには
 この世の道俗ことごとく
 外儀は仏教のすがたにて
 内心外道を帰敬せり」

「かなしきかなや道俗の
 良時吉日えらばしめ
 天神地祇をあがめつつ
 卜占祭祀つとめとす」

このお悲しみは、決して八百年前だけのことではないでしょう。

彼には、続けて、親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を示して、話してゆきたいと思っています。
posted by niyoku at 16:02| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月02日

阿弥陀仏と、お釈迦さまの違い

 阿弥陀仏とお釈迦さまの違いも、親鸞会にお参りして初めて知り、これまたびっくりしました。

 私は件の友人と、本願寺布教使の0氏から、20年以上、話を聞いてきましたが、ただの一度も、阿弥陀仏とお釈迦様の違いを、教えてもらったことがありませんでした。
 それで、仏といえば、みんな同じだと思っていたのです。それどころか、村にある地蔵菩薩や、宮の神との区別も、まるでついていませんでした。

 ところが親鸞会では、ほぼ毎回、必ず蓮如上人の「ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり」という御文章を出されて、阿弥陀仏が本師本仏(先生)であり、お釈迦さまは弟子であることを聞かせて頂いています。
 高森顕徹先生のご説法もそうですし、だから親鸞会の講師は、みんなそうされています。
 これが分からないと、仏教も親鸞聖人の教えも絶対に分からない、ということだか
らでしょう。

 この「阿弥陀仏とお釈迦様の関係」という、仏教の基本中の基本というか、浄土真宗の門徒であれば当然知っていなければならないことを、わりと熱心に布教使の話を聞きに行っていた私たちでさえ全く知りませんでしたから、そうでない門徒の人たちの理解は押して知るべしです。
 これでは他の宗派の人から「門徒物知らず」と馬鹿にされても、文句がいえない状態です。

 阿弥陀仏が本師本仏と仰がれるのは、私たちの後生の一大事を解決して、信楽(絶対の幸福)に救う力のあるお方は、阿弥陀仏だけだからです。
 だからお釈迦さまは、「一向専念無量寿仏」と、仏教の結論として仰っている。
 これは、「無量寿仏(阿弥陀仏)一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよ」と説かれた、お釈迦さまの御金言です。

 親鸞聖人も、蓮如上人も、この一向専念の教え一つ、徹していかれた方ですから、浄土真宗を、「一向宗」と言われるほどだったのです。
 そのことも御文章に書かれています。

 こんな大事なことを、どうして本願寺は教えてくれないのか。だから門徒はみんな、親鸞聖人も蓮如上人も「捨てよ、捨てよ」と厳しく排斥された「雑行」を、やりまくって平気で、「四国の八十八箇所巡りに行ってきました」などと聞けば僧侶も布教使も、いいことをしたように誉めているのが現状です。

「悲しきかな」の、親鸞聖人の悲嘆が、聞こえてくるようです。

 次回に書きたいと思います。

posted by niyoku at 16:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月24日

「平生業成」信仰に完成がある。目を丸くした親鸞会の法話

 私は富山に住む者です。

 3年前に、どんな仏縁あってか、チラシで親鸞会の講演会を知ることができました。

 今まで本願寺で何十年も聞いてきたものが「浄土真宗」と思い込んでいた私にとりましては、親鸞会で聞かせて頂いた親鸞聖人の教えは、たいへんな驚きでした。

 地元の文化講座に何回か足を運んだ後、学徒の皆さんに誘われ、二千畳の正本堂に参詣したときのことは、今でも忘れることができません。

 親鸞聖人のお言葉を出されての高森顕徹先生の分かりやすいお話、気迫といいますか、情熱。参詣者の真剣な様子。聞法のために建てられた立派な会館、大講堂。いずれも、本願寺の説教では見たことない光景でした。

 何よりも、親鸞聖人の根拠を示して、その意味をゆっくり噛んで含めるように教えてもらえるご説法は、本願寺ではなかったことです。

 本願寺の布教使と言えば、妻や子供の言動を面白おかしく語ってアハハオホホと笑わせたり、新聞の切り抜き話をしたり、やれ旅行先でこんなことがあった、株で得した損したなどと個人的な体験がほとんどでした。
 ようやく仏法の話になりかけて、よし今からだと気合いを入れるのですが、よく分からぬあいまいな話で、結局、何も分からないまま終わってしまいました。
「ああ、仏法とはこんなものなんだな」と、何十年も思いつづけてきたのです。「念仏さえ称えていれば、スーッと極楽に往けるもんだ」と、漠然と、今から思えば気楽に、考えていたものでした。

 ところが親鸞会では、親鸞聖人の教えは「平生業成」であり、信仰には完成がある、仏教には卒業がある、「いまハッキリ救われた!」と言う時が必ずくるんだと、黒板に縦の線と横の線を書かれたものですから、目を丸くしました。
 しかもそれはちゃんと、親鸞聖人の根拠があってのことなので、納得せざるをえません。続けて聞けば聞くほど、これが親鸞聖人さまの教えなのか、浄土真宗とはこういう教えだったのかと、驚くばかりでした。

 半年ほどして、私も親鸞学徒にならせて頂きました。

 真実の教えに遇えた喜びが出てくると、では今まで何十年と聞いてきたのはいったい何だったのかと、失われた過去を悔やまずにおれません。これからの真剣な聞法で取り戻したいと私は思っておりますが、気の毒なのは今なお本願寺についている門徒の人たちです。
 一緒に本願寺の話を聞いてきた私の友だちも、その一人ですが、なかなか本物の信仰に目覚めてくれません。

「念仏さえ称えておれば、誰でも死んだら極楽」とか「御本尊は絵像でも木像でもいい」など、友だちの主張には、本願寺の教えが凝縮されています。
 それがいかに浄土真宗とはかけ離れたものであるか、親鸞聖人のお言葉という間違いない物差しに照らして、今でこそ私も分かるようになりましたが、過去の私のように何も知らないまま地獄におとされてゆく人がないように、ともに信心獲得して往生の本懐を遂げてもらいたい、彼を初め、縁のある人には、本当の親鸞聖人の教えを伝えてゆきたいと思っているところです。

posted by niyoku at 22:39| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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